Subject   : 前漢

カテゴリー  : 歴史  


 前漢(紀元前206年 - 8年)
 前漢は中国の王朝である。滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。

7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡、その後漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。

秦の始皇帝は皇帝理念・郡県制など、その後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した。しかしその死後、二世皇帝が即位すると宦官の趙高の専横を許し、また阿房宮などの造営費用と労働力を民衆に求めたために民衆の負担が増大、その不満は全国に蔓延していった。

紀元前209年に河南の陳勝による反乱が発生したことが契機となり、陳勝・呉広の乱と称される全国的な騒乱状態が発生した。陳勝自身は秦の討伐軍に敗北し、敗走中に部下に殺害されたが、反秦勢力は旧楚の名族である項梁に継承され、楚を復国し義帝を擁立、項梁の死後はその甥の項羽が反秦軍を率いて反秦活動を行った。漢の創始者である劉邦はその部下として秦の首都であった咸陽を陥落、秦を滅亡させた。その後は西楚の覇王を名乗る項羽と、その項羽から漢中に封建されて漢王となった劉邦との間での内戦が発生した。(楚漢戦争)

当初、軍事力が優勢であった項羽により劉邦はたびたび敗北したが、投降した兵士を虐殺するなどの悪行が目立った項羽に対し、劉邦は陣中においては張良の意見を重視し、自らの根拠地である関中には旗揚げ当時からの部下である蕭何を置いて民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力の補充により敗北後の勢力回復を行い、更に将軍・韓信を派遣し、華北の広い地帯を征服することに成功する。これらにより徐々に勢力を積み上げていった劉邦は紀元前202年の垓下の戦いにて項羽を打ち破り、中国全土を統一した。

劉邦は諸将に推戴され皇帝に即位する(高祖)。高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王・列侯に封じ、新たに長安城を造営、秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった。しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ。

● 呂氏の専横
紀元前195年、高祖は崩御。その跡を劉盈(恵帝)が継ぐ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、更にその母の戚夫人を残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さにショックを受け酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。呂后は少帝恭、少帝弘を相次いで帝位に付けるが、少帝弘は実際には劉氏ではなかったとされる[2]。 呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である呂産、呂禄らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせ外戚政治を行う[2]。「劉氏にあらざる者は……」という皇族重視の国家体制の変質である。呂后は呂氏体制を確立するために奔走したが紀元前180年に死去した[2]。呂后の死去に伴い反呂氏勢力が有力となり、朱虚侯の劉章・丞相の陳平・太尉の周勃らが中心となり呂産を粛清、呂氏一族は粛清され、呂氏の影響力は宮中から一掃された。
 ⇒ 世界史年表
 ⇒ 漢の武帝

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