Subject   : 漢の武帝

カテゴリー  : 歴史  


 漢の武帝
 景帝は紀元前141年に崩御し、16歳の劉徹(武帝)が即位した。この時、史上初めて「建元」という元号が立てられ、祖母竇太后の元、治世が始まった。武帝は文景の治で国家財政・経済が充実、政治も安定したことから積極的な活動を行おうと考え、まず儒者を取り立てて政治の刷新を図ろうとした。しかし、これは竇太后の反対に合い、すすめることができなかったが建元6年竇太后が死去すると状況が変わる。 竇太后という束縛の無くなった武帝はこれより「雄材大略」ぶりを発揮する。内政面においては儒者公孫弘、董仲舒らを登用、郷挙里選の法を定め儒者の官僚登用を開始した。また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった。 外交面では北方の匈奴とは、前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた。これに対して武帝は前134年に馬邑の土豪であった聶壱の建策を採用、対匈奴戦に着手した。前129年に実施された第一回目の遠征では4人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・衛青は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げている。以後衛青は7度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げ、匈奴は壮丁数万、家畜数十万頭と記録される被害を受けた。また衛青の甥である霍去病の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという戦果も挙げた。漢軍の攻勢を避けるため、匈奴は漠北(ゴビ砂漠の北)への移住を余儀なくされ、漢は新たに獲得した西域に朔方・敦煌などの郡を設け直接統治を開始した。 朝鮮の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国への征服も実施し、朝鮮には楽浪郡などの四郡をベトナムには日南郡を設け新たな直轄領とした。また、匈奴対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫・大宛・その他の西域諸国と関係を結び、西域との間にいわゆるシルクロードの交易路が開けた。そして「中国」と呼ばれる領域の大枠がこの時代に始まった。 さらに武帝は始皇帝の例にならい各地を巡行、元封元年(前110年)には泰山で封禅を行った。これは聖天子にのみ許される儀式であり、それ以前に行ったのは始皇帝のみであった。この頃が武帝の絶頂期であったとされる。

しかし相次ぐ軍事行動は財政の悪化を招き、農民の自作放棄に伴う大地主による土地の併呑が深刻な問題となった。武帝は経済官僚である桑弘羊を登用して塩鉄専売制を開始、また商人に対しては均輸・平準を行い、商工業者に対して新税を設置、国家収入の増大を図り財政収入は増大したが、専売と新税により商人は商業活動に打撃を被った。治世の後半は、没落した多数の農民や商人による盗賊の横行に悩まされる。

社会不安に対して武帝は酷吏を登用、厳格な法治主義で対応した。盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出している。また前106年には郡太守が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を13州に分割し、州内の郡県の監察官として州刺史職を新設した。

晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪殺するものであり、これを行うことは厳禁されていた。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして紀元前91年、皇太子であった戻太子が常より対立していた酷吏・江充による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戻太子は長安で挙兵し、敗死した(巫蠱の乱)。後に戻太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を誅殺した。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。


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