Subject   : 江戸時代の大名の家格

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 江戸時代の大名の家格
 徳川将軍家との親疎により御一門(御三家・御三卿・御家門)・譜代・外様に分けられた。また封域の大小や城郭の有無による、国持・城主・城主格・無城に区別された。さらに、朝廷が叙任する位階・官職によって、侍従以上、四品(四位)・諸大夫(五位)に分けられていた。大名は、参府や帰国のとき、「朔望の登城」といって、月々の一日と十五日に江戸城に登って将軍に拝謁したが、この時の控えの間によって分けられていた。

○ 徳川宗家
松平宗家9代当主の家康は、永禄9年三河守に叙任され徳川と改姓した。慶長5年関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任命された。徳川幕府を開いた家康は3男秀忠に将軍職を譲り、この秀忠の系統が徳川宗家として将軍職を継承する。ところが、その血統は7代家継で断絶した。8代将軍には御三家の紀伊家より吉宗が就任した。これより紀伊家の血統が将軍家を継ぎ、14代将軍家茂に至る。家茂は長州征伐に出陣するが大阪城で病没する。15代将軍慶喜は、御三卿の一橋家より就任したが、もともと水戸徳川家9代斉昭の7男で一橋家の養子となり最後の将軍となった。16代徳川宗家は、御三卿の田安徳川家の家達に継承された

○ 家門大名(親藩)
家門大名(親藩)とは、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている一族をいう。初代家康は、将軍家の断絶に備えた血脈の維持、全国の大名統制への監視、幕府の補佐を含めて、将軍家と同格に徳川姓を許され、御三家と呼ばれて諸大名の中で最高の待遇を受けた。いわゆる将軍家に後継者がいない場合は、御三家から将軍を出す決まりで、徳川姓を名乗れるのは、当主とその後継者に限られている。8代将軍吉宗は、家康の御三家に倣って御三卿を創設した。だが、独立した大名でなく、江戸城内の屋敷地で将軍家による扶養大名であった。これは紀伊徳川家の血統によって将軍職を維持継続させるためである。

○ コ川御三家
徳川御三家は、尾張徳川家(家康の9男義直・母お亀の方)、紀州 徳川家(家康の10男の頼宣・母お万の方)、水戸徳川家(家康の11 男の頼房・母お万の方)

○ コ川御三卿
徳川御三卿は、田安徳川家10万石(吉宗の2男宗武)、一橋徳川家10万石(吉宗の4男宗尹)、清水徳川家10万石(家重の2男重好)である。

○ 御家門
御家門とは、家門大名(親藩)から御三家、御三卿、を除いた大名家や旗本家を「御家門」と呼ぶ。御家門は家康の元姓である松平姓を名乗ることを許されている。しかし、その多くは幕府の要職に就くことはないが、将軍家の一門としての格式を重んじられていた。

○ 譜代大名
譜代大名とは、「譜代の臣」と言われ、歴代にわたり徳川将軍家に仕え、君臣関係の絆が強固な家臣をいう。また、臣従時期によって、最古参の「安祥譜代」、「岡崎譜代」、「駿河譜代」と称する序列があった。特に家康が豊臣政権下で関東移封の際に主要な譜代の武将に関八州内の城地を与え、家康の強固な忠臣として支えた。それ以外の家臣は直轄軍に編成され、後に旗本や御家人となった。譜代大名は、老中、若年寄を始めとする幕閣の要職に就く資格を有する。譜代大名以外から幕閣の要職に登用しない慣行が不文律として厳格に守られた。4代将軍家綱の後見人である保科正之の会津松平家は親藩でなく譜代扱いとされていたので譜代の例外に当らない。

○ 外様大名
外様大名は、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川家康の支配体系に組み込まれた大名を指す。「外様」とは、もともと室町時代に主家との主従関係をもつ家臣で軍事動員に応じる程度のゆるい関係であった。ゆえに、この外様の家臣は主家滅亡時に離反しても咎められることはなかった。譜代大名は豊臣政権下の5大老の一人家康の家臣に過ぎない。これに対し、外様大名は豊臣政権下では家康と肩を並べる大名家である。

外様大名は幕閣の要職に就けないが、関ヶ原の前と後の臣従では扱いに違いがあった。東軍に就いた大名への恩賞で要地から僻地へ転封する代償として多大な加増が行われ、外様大名にも大領を治める者が続出した。しかし、それら大名は、江戸を中心に関東、東海道、京都、大阪など戦略的な要地に配置されなかった。なお、血縁関係や功績で譜代に準ずる外様大名を準譜代大名と呼んでいた。

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