Subject   : 陰陽道〔おんみょうどう〕

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 陰陽道〔おんみょうどう〕
中国古代の陰陽(いんよう)説、五行(ごぎょう)説のうえにたつ信仰的思想。宇宙万物は、陰と陽との組合せによって生成するものであり、その変転は木、火、土、金(ごん)、水の五原素に基づいて推進されるという、一種の自然哲学ないし自然科学であり、東洋的な人生観、世界観に大きな影響を与えた。これが中国大陸から朝鮮半島を経て日本に伝えられた。

日本への陰陽道の伝来は,「日本書紀」継体天皇7年(513)7月、百済から五経博士段楊爾(だんようじ)が学者人材として献上され、同10年9月、五経博士漢の高安茂と交替したとあるのが最も古い記録である。
欽明朝(539〜571)には百済から新たに五経博士のほか、易博士・暦博士が来朝し、推古朝には10年(602)百済僧観勒(かんろく)が暦本をはじめ天文・地理書や遁甲・方術書を携えて来て朝廷に献上した。 書記に,推古天皇28年(628)に極光(オーロラ)に関すると思われる記述があり、同36年(628)には、日蝕の記事が現れ、さらに、6年後の舒明天皇6年(634)の彗星の記録などが登場してきており、従来、天体に関しての関心が極めて薄かった日本人が、星の動きに注意をはらいはじめたことがわかる。

陰陽道思想は、天皇中心の政治体制の権威づけや理論づけにも用いられはじめた。また、災異瑞祥の思想も(天子の政がよければ天はこれを喜んで瑞祥を現し,悪ければ災異をもってこれを戒めるという天人相関・天地相関の思想)天文関係の記事と同様,推古天皇の代から非常な件数で現れ出してくる。技術的な面では、斉明天皇6年(660)、後の天智天皇(中大兄皇子)が漏刻(水時計)を日本ではじめて製作して民衆に時を知らしめたと書記は伝えている。この漏刻も、やはり陰陽道系の知識に基づくものなのである。 陰陽道の思想と技術は、着々と社会の中に取り込まれていったが、制度的に確立されたのは、天武天皇(在位673〜686)の時代であった。

天武天皇は中国の律令体制にならっての国家建設という理念から, 陰陽道を国家体制に組み込み,厳重な管理のもとにおくことに決めた。 それが、治世4年目(676)「陰陽寮」および日本初の「占星台」の建造である。 陰陽寮は、国法によって正式に認められた国家の機関となり、そこに所属する陰陽師たちは国家公務員になったのである。ということは、彼らの占いが,私的性質のものではなく、公のものとなったことを意味する。

北家藤原氏が台頭してくるにつれ、政界の複雑に絡む利害関係、権力をめぐる暗闘は、目に見えない世界の力関係を読む特殊技能者としての陰陽師らの私的需要を喚起した。同時に,怨霊や物怪におびえる宮廷人の精神状況に、陰陽道系の占いや仏教などとの習合によって獲得した呪術・祭祀がマッチし彼らの心を強烈に捉えたことから、陰陽道は活況を呈し、刀伎直川人(ときのあたいかわひと)、弓削是雄(ゆげのこれお)や、賀茂忠行、その嫡子の保憲、安倍晴明などすぐれた陰陽師が輩出されていくのである。

陰陽道は、朝廷・幕府を中心にして、一貫して祭事・政事・年中行事・占術・医術・農業などの基本原理となり、また、戦国時代には、大名・軍師によって軍事に用いられるなど、広範囲に実践応用されてきた。 しかし、明治維新により西洋天文学が導入されると、陰陽五行思想は迷信 に近いものとして排斥され、国家権力の中枢からその姿を消してしまった。 しかし、明治・対象・昭和・平成と現在に至るまで、その伝統を伝える 運勢暦もなお多く存在しています。

陰陽道の本領は、宇宙万物の生成および変転の原理を説明するところにあったので、おのずから未来を予知する可能性が生じ、そのよりどころとして天文、暦数の術を採用したのである。そのため一面では、きわめて学術的な要素を有するようにみられたが、現実的には、福を招き禍を除くことを目的としたので、祭り、祓(はらい)、占(うらな)い、呪(まじな)いなどを重視した。そのため他の一面では、きわめて呪術(じゅじゅつ)的ないし信仰的な要素を有するものと考えられる。祭りには、長寿や栄達を祈願するためのものや、疫神、邪鬼の侵入を防御するためのものがあり、祓には、定められた日時に、定められた場所で水浴し、不幸や病気の原因を洗除するためのものなどがあった。また日本古来の占いは神祇(じんぎ)官の管掌するところであり、これを官卜と称し、陰陽寮の管掌するところのものは式占(しきせん)と称せられたが、時代の移るにつれて後者が重んじられるようになり、いかなる年月日時に、いかなることをなすべきか、あるいはなすべからざるか、また吉と凶とは、いかなる時と方位との関係によって定まるか、などを詳しく説いて世人の信を得たのである。なお日食、月食、彗星(すいせい)、流星などの天体現象によっても人間界の社会事象を説明し、さらにその対策を講ずることさえ行われ、年号の改定を進言することもしばしばあった。古代では公家(くげ)の政策に、中世では武家の戦術に取り入れられたこともある。
 ⇒ 暦のことば(二十四節気)

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