Subject   : コリント

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 コリント 
 ギリシアのポリス(都市国家)の一つ、ギリシア語ではコリントス。ペロポネソス半島のつけねに位置し、交通の要衝であったので商業が発達し、「ヘラスの星」と言われる有力ポリスとなった。シチリア島のシラクサはコリントの植民市として建設された。ポロポネソス戦争ではスパルタなどと同盟を結び、アテネと対立し、その後スパルタの覇権が成立するとそれに反発してアテネ、テーベ、アルゴスなどと同盟してスパルタと戦った。それが前395〜386年のコリント戦争。この戦争はペルシア帝国の王の仲介で和約し、「大王の和約」と言われた。その後はテーベが台頭した。

北方のマケドニアのフィリッポス2世はカイロネイアの戦いでアテネ・テーベの連合軍を破ると、前337年にこの地にスパルタを除くギリシアのポリスを集めて会議を開き、コリントス同盟(ヘラス同盟、ヘラス連盟ともいう)を結成させた。ヘレニズム時代はマケドニアの支配が続いたが、アレクサンドロス大王の没後は自立し、ギリシア南部のポリス連合であるアカイア同盟に加わった。次いで西方からローマが進出し、マケドニア戦争が勃発し前146年、コリントもローマ軍によって破壊された(西方でのカルタゴの滅亡と同年)。ギリシア建築の最も発達した形式とされるコリント式列柱はこの地から起こったとされる。

● コリント戦争
 前395年〜386年、ギリシアのスパルタの覇権に対して、アテネ・テーベ・コリントの三ポリスが同盟して戦った戦争。ペロポネソス戦争の勝利によってギリシアの覇権を握ったスパルタに対し、それを危険視したペルシア帝国が三ポリスに経済援助を行ったとされる。三ポリス同盟側は一時勝利を収め、今度はアテネの復興を恐れたペルシア帝国がスパルタの要請を受けて仲介に乗り出し、いわゆる「大王の和約」で終結させた。ポリスの衰退期のペルシア帝国の介入の一例。その後ギリシアではテーベが台頭するが、全体として弱体化し、北方のマケドニアの台頭を許すこととなる。

 ⇒ アテネ

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