Subject   : ガンディー(1869―1948) 

カテゴリー  : 歴史  > 


  ガンディー(1869―1948)
 ガンディー(1869〜1948、マハトマ=ガンディーのマハトマは「偉大な魂」の意味)は西部インドの下級官吏の家に生まれ、ロンドンに留学して(1888〜91)弁護士となり、帰国後南アフリカに渡ってサティヤーグラハ(サティヤーは真理、グラハは把握の意味、ガンディーはこの言葉に非暴力抵抗の意味を与えた)の運動を指導し、人種差別政策と闘い(1893〜1914)、帰国(1915)後国民会議派に加わった。

第一次世界大戦が起こると、イギリスはインドに戦後の自治を約束し(1917年8月にインド担当相モンタギューが行った)、インドの協力を求めた。インド人はその約束を信じ、120万の兵員を動員し、物資を供給してイギリスに協力した。
 しかし、1919年に公布されたインド統治法では州自治の一部が与えられただけで、インド人の期待した自治の約束にはほど遠いものであった。
 その上イギリスは、1919年3月にローラット法を発布し、逮捕令状なしの逮捕・裁判抜きの投獄を行う権限をインド総督に与え、インドの民族運動を弾圧した。
 1919年4月13日、パンジャーブ地方のアムリットサル(アムリツァール)で開かれた自治の約束無視とローラット法発布に対する抗議集会に集まった約1万人の群衆にイギリス軍が発砲し、約400人が死亡し1000人以上が負傷するというアムリットサル虐殺事件が起こり、インドの反英運動は激化した。

 ガンディーは第一次世界大戦には自治の約束に期待してイギリスに協力したが、戦後約束が守られないと、「われわれはパンを求めて石を与えられた」とイギリスの背信をなじり、ローラット法が施行されると非暴力・不服従(サティヤーグラハ)の運動を指導した(第1次1919〜22、第2次1930〜34)。

 大戦中から反英的になっていた全インド=ムスリム連盟も国民会議と提携したので(1920)、イギリス商品のボイコット・イギリスの行政機関への非協力・公立学校の生徒の退学・商店の自主的休業・地租支払い拒否などの運動が全インドに広がった。

 しかし、1922年2月に蜂起した農民が警察署を襲って警官22名を殺害するという出来事が起きると、ガンディーは不服従運動の中止を宣言したが逮捕され、6年の懲役に処せられた。

 ガンディーは2年後に釈放されたが、その後数年間は政治から離れ、以後国民会議派内の分裂やヒンドゥー・イスラム両教徒の対立などもあって運動は停滞した。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

[メニューへ戻る]  [HOMEへ戻る]  [前のページに戻る] ]