Subject   : ヘンリー8世 

カテゴリー  : 歴史  > 


 ヘンリー8世
イングランド王ヘンリー7世の第2王子として、1491/6/28グリニッジ宮殿で生まれました。早熟で幼児期より才能を示し、5ヵ国語に通じ、神学を学び、音楽もこなし、武術では「弓を引く力はイングランド随一」と言われた、多事多彩の人物でした。1509/4/21父君の死により、平和な王国を継承し、6/11亡き兄王子の妃でスペインのフェルナンド5世の娘・キャサリンと結婚し、6/24ウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行しました。1516/2/18メアリー(1世)が生まれました。しかし、男子の王位継承者に恵まれず、王妃キャサリンとの離婚問題をめぐるローマ教皇庁との対立から、宗教改革を断行、国教会を組織し、王の至上権の確立、聖俗双方の中央集権化を図って絶対主義政治を完成しました。

対外的には、1511年フランスに敵対してスペイン、ローマ教皇、ヴェネチアと神聖同盟を結んで、1512年フランスに侵攻、出兵しました。13/8/13キヌガットの戦いに大勝し、フランスのトゥールネーとテオルアンヌを占領しました。 戦費調達には苦慮し、貨幣の悪鋳を実施して、すでにスペイン銀の流入によって引き起こされていたインフレーションの重圧を">国内にもたらしました。海を渡ってのフランス侵攻が有りましたので、海軍問題に関しては熱い関心を示し、王立艦隊を創立し、より強大な海軍と海軍行政の近代化を推し進めました。

1513/9/9イングランドに攻め入っていたスコットランドが、フロドンの戦いで敗北したので、ヘンリー8世は1514年フランスとスコットランドとに和平しました。ヘンリー8世の妹メアリーとフランス王ルイ12世との結婚が成立し、外交の大転換が起きました。1533/1/25アン・プリンと結婚し、同年5月にはキャサリンとの離婚が法廷で成立しました。33/9/7アン・プリンとの間にエリザベス(1世)が誕生しました。1533年の国王至上法はイギリス国教会が国王を首長であると宣言し、ローマ教皇庁と断絶し、ここに1535年イギリス国教会が創立されました。1536年にはアンを無実の罪で処刑、ジェーンと結婚、エドワード(6世)が生まれましたが、ジェーンは亡くなりました。1540年にはクレーフェ公の娘アンとの結婚の取り決めが行われましたが、結婚は解消されました。その直後、ノーフォーク公の姪で19才のキャサリンと結婚しましたが、彼女は性的素行が悪かったため、1542/2/13処刑されました。1542年には再びスコットランドとの戦いが始まり、さらに43年にはフランスとの戦争(3年間)が始まりました。

ヘンリー8世はその私生活をよく語られますが、イギリス海軍の基礎を築いた人物でも有ります。1545年フランスと闘うためメアリー・ローズ号などの181隻の艦隊を召集しました。それらのトン数は12,455トンを数え、1,000トンのグレート・ハリー号もありました。彼が1547年死ぬ直前に戦争は終わり国王は艦隊を解散しましたが、海軍(Loyal Navy)が創設されて、1546年の海軍委員会の設置によって、国王は海軍を編成する手段を獲得しました。大型の商船が建造されると一定の下賜金を支給したり、船舶の定期的な検査やセンサスを始めましたし、海岸や入り江の浮標や灯標を改善する動きもありました。トリニティ・ハウスが1514年勅許され、水先案内人の試験の実施と、免状の発行、その取り締まり、そして商船で働く士官と水夫たちの紛争の処理が付け加わりました。それはシーマンシップの水準を引き上げ、船員の無知による海難を減らすことが目指されていました。1547/1/28に56才で亡くなりました。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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