Subject   : 黒死病

カテゴリー  : 歴史  > 


 黒死病
14世紀中ごろヨーロッパに蔓延(まんえん)したペストの俗称。死亡者の皮膚が黒ずんでみえたことからの呼称と思われる。中央アジアのイシク・クリ湖の周辺に1330年代に発生したペストが最初の発病であったといわれる。それが黒海沿岸に達し、クリミア半島でまず流行し、ジェノバの貿易船がペストの宿主(クマネズミ)に乗り物を提供した。1347年10月シチリア島のメッシーナに発生した病気は翌48年6月までに、パリを鋭角の頂点として、ベネチア、ボルドー、コルドバを結ぶ三角地帯に伝播(でんぱ)した。年末にかけて、ノルマンディー、イングランド南部が死の影の中に入った。1349年に病気は三角地帯の外周部に広がり、50年にはバルト沿海に及ぶ。

ペストは腺(せん)ペストが主体で、肺ペストも一部観察された。腺ペストの決定的症状はリンパ腺(節)の腫瘍(しゅよう)(腫脹(しゅちょう))である。「まず病気が現れるのは、股(また)の付け根とかわきの下の腫瘍であり、その大きさは並のリンゴほど、あるいは卵ほど。大きいのも小さいのもある。民衆はこれをガボチオーロとよんでいる」とボッカチオも解説している。被害の程度は地域差が大きかった。ミラノ侯領、ガスコーニュ、中央ドイツ、フランドルなどでは死亡率は低く、トスカナ、ラングドック、カタルーニャなどでは高い。総じて、年代記家フロワサールの「3人に1人」という証言が妥当しよう。当時の医学に病理学的知識は欠落していたものの、衛生と隔離の勧告はかなりの成果をあげた。フランドルのトゥールネーの市当局は、教会での集会さえ禁止し、死者は野外に葬らせた。ちょうど南ドイツに発生した鞭(むち)打ち苦行団の行列がパニック感をあおるということはあったが、フランス王政府はこの団体の侵入を国境で阻止している。また、アルプス以北の各地にユダヤ人狩りが発生したが、ローマ教皇クレメンス6世は禁令を発し、教会領に逃げ込むユダヤ人を保護させている。当然、社会的パニックが起こったはずだと思い込んではならない。この災禍に立ち向かった人々の努力を観察する視線が必要と思われる。3人のうち2人も生き残ったともいえるのである。

14世紀に入り、ヨーロッパの人口と経済は下げ潮の気運にあった。それにこの落ち込みである。領地経営は破産し、土地所有のシステムが崩れた。労働力が不足し、賃金と物価は高騰する。輸送のシステムは乱れ、穀物市場は閉鎖された。しかし、すでに不調の経済と社会であっただけに、人々はいわばこの事態を必然のものと受け止め、これを乗り切ろうとする意欲を心に固めたといえる。黒死病以後、「死の舞踏」という文学、芸術の主題に表れたように、死のイメージと無為の感情が人の心を支配した。末世感覚である。しかし、その死へのこだわりは、また現世への飽くなき執着を意味してもいたのである。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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