Subject   : ラージプート時代

カテゴリー  : 歴史  > インドの歴史


 ラージプート時代
7世紀後半のヴァルダナ朝滅亡から、13世紀初めのイスラム政権デリー=スルタン王朝の成立までの、北インドの分裂時代。いくつかの王国(その国王がマハーラージャ)に別れ争ったが、8世紀から始まるイスラーム勢力の侵入をうけ、分裂していたため撃退することができず、13世紀初めには北インドにイスラーム政権が成立した。ラージプートとは、サンスクリット語のラージャプトラ(王子の意味)の訛った言葉で、正統的なクシャトリヤの子孫であることを意味する。この時期の北インドの諸王がラージプートを称したので、ラージプート時代という。

 その中の最も有力であったのは、北インドを支配したプラティーハーラ朝(都カナウジ)である。他の地方政権で非ラージプートであるベンガル地方のパーラ朝、デカン高原のラーシュトラクータ朝と7〜10世紀に三つどもえの抗争を行った。このプラティハーラ朝は、アフガニスタンから侵攻したイスラーム教国ガズナ朝によって、1019年に滅ぼされた。次にラージプート諸国のチャーハマーナ朝が北インドで有力となったが、1192年、アフガニスタンから侵攻したイスラーム教国ゴール朝に敗れて、さらに1206年デリーに奴隷王朝が成立してラージプート時代は終わった。

 ヴァルダナ朝はハルシャ王一代で瓦解し、これらの古代王朝の後、7世紀半ば以降はラージプートの諸王朝が分立して北インドは再び分裂した。義浄が訪れたのも分裂時代のインドであった。ラージプートは、中央アジア方面から北西インドに侵入した異民族の子孫だといわれている。かれらは軍事的にすぐれ、各地を支配し、その下に大小領主層がいて、地主や農民を支配した。プラティハーラ朝がそのなかで最大のもので、イスラム勢力の侵入を11世紀初頭まで食いとめたことで知られる。また、10世紀から12世紀頃にかけてチャンデーラ朝の歴代君主は、世界遺産にもなっているカジュラーホーの寺院群を建設した。

こうしたなかで職能集団が形成され、それぞれ世襲化されるようになり、今日のカーストにつながる「ジャーティ」と呼ばれる集団単位が成立していったとみられる。

● プラティーハーラ朝
8〜11世紀に北インドで有力となったラージプート時代のラージプート諸国の一つ。中央アジアから移動してきたという説と北インド土着説があるが、彼ら自身は正統クシャトリヤの末裔(ラージプート)と称した。ヴァルダナ朝滅亡後のカナウジを都とし、9世紀に全盛となり北インド全域をほぼ支配した。シンド地方のイスラーム勢力とはよく戦い、その東進を阻んだが、次第にラージプート諸侯の独立によって衰退し、1018年に北西から侵攻したガズナ朝のマフムードによってカナウジが破壊され、滅亡した。


 ⇒ 世界史年表

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