Subject   : 隋の煬帝

カテゴリー  : 歴史  


 隋の煬帝
  文帝の皇后の独孤伽羅は非常に強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独孤皇后は文帝の周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近づくことを警戒していた。

文帝と独孤皇后の間の長男・楊勇が初め皇太子に立てられていたが、楊勇は派手好みで女好きであり、質素を好む文帝・貞操を重視する皇后の両者から嫌われ、それに代わって両親の気に入るように振舞っていた次男・楊広が皇太子に立てられる。

604年に文帝は死去し、楊広が後を継ぐ(以後煬帝)。煬帝は即位後すぐに弟たちを策謀によって殺害し、競合相手を消す。このようなことから、文帝の死に際しても煬帝の画策があったのではないかと後に囁かれるようになる。

煬帝は質素を好んだ文帝とは対照的に派手好みで、父がやりかけていた大土木事業を大々的に推し進め、完成へと至らせた。主なものが首都・大興城の建設と、大運河を大幅に延長して河北から江南へと繋がるものとしたことである。

そしてこれも文帝がやりかけていた高句麗遠征(麗隋戦争)を三度にわたって行うが、これは三度とも失敗に終わる。

このような度重なる負担に民衆は耐えかね、第2次高句麗遠征からの撤兵の途中に起きた楊玄感の反乱を期に、全国的に反乱が起きるようになる。煬帝自身は行幸の途中で江都に留まり、反乱鎮圧の指揮を執ったが、もはや手のつけようのない状態に陥っていた。

● 滅亡へ
楊玄感の参謀を務めていた李密は北周八柱国・李弼(りひつ)の孫にあたり、関隴貴族集団の中でも上位の一人であった。楊玄感の敗死後に、洛口倉という隋の大食料集積基地を手に入れることに成功し、多数の民衆を集めた。 この李密と激しく争っていたのが、西域出身で隋の将軍を務めていた王世充である。 竇建徳(とうけんとく)は高句麗遠征軍から脱走し、同じ脱走兵たちを引き連れて河北に勢力を張った。

そして隋の太原留守(たいげんりゅうしゅ)であった李淵(後の唐の高祖)は大興城を攻め落とし、煬帝を太上皇に祭り上げて煬帝の孫の代王楊侑(恭帝侑)を皇帝に擁立した。

このような報告に対して、煬帝は酒に溺れて耳をふさいでいたが、これに不満を持った近衛軍団により殺害される(618年)。近衛軍団は宇文化及の主導の下に秦王・楊浩を擁立し、北へと帰還することを望んだが、途中で竇建徳の軍に大敗して消滅した。

煬帝の死を聞いた李淵は、楊侑から禅譲を受けて唐を建てる。

洛陽にいた越王楊?は、煬帝の死を受けて諸臣に推戴され皇帝となったが(恭帝?)、619年に王世充に簒奪され、隋は完全に滅びた。

なお、煬帝の「煬」の文字は、「天に逆らい、民を虐げる」という意味を持ち、李淵によって贈られた諡である。

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 ⇒ 世界史年表

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