Subject   : 五胡十六国時代

カテゴリー  : 歴史  


 五胡十六国時代
  五胡とは匈奴・鮮卑・羯・てい・羌の五つのことであるが、羯は匈奴の中の一派であって、これを一と数えるのは少々無理がある。羯の石勒が後趙を建てたからとするならば、鮮卑は拓跋部・慕容部・禿髪部・乞伏部がそれぞれ別の国を建てており、それぞれを数えなくてはならなくなる。五という数字は五行説に結びつけた結果と考えられるので、五胡は「複数の民族」というように解釈するべきだろう。そしてその複数の民族の中には漢族が含まれている。

また、匈奴によって建てられた前趙、鮮卑慕容部によって建てられた前燕といった説明がされるが、これはあくまで中心となって建てた民族であり、その国家の中には複数の民族が混在していた。

「胡」の字には異民族に対する差別的な意味合いがあるので、近年使用が控えられるようになり、それに代わり東晋十六国の名前が使われるようになってきた。ただし、五胡十六国時代の範囲には東晋滅亡後の20年ほども含むため、この用語も完全に適切とは言いがたい。

● 華北王朝の興亡
劉淵は匈奴の羯族出身である石勒や漢人の将軍王弥を従えて山西一帯を攻略し、308年には漢皇帝を名乗る。劉淵は310年に死去し、一旦息子の劉和が後を継ぐが、人望が無く弟の劉聡が取って代わった。劉聡は翌311年に晋の首都・洛陽を落として恵帝の弟懐帝を虜にし、晋を実質上滅ぼした(永嘉の乱)。その後、長安では残党によって懐帝の甥愍帝が擁立され、漢に対して抵抗を続けていたが、316年にこれを滅ぼして、晋を完全に滅亡させた。晋の王族であった司馬睿はそれ以前より南の建業(後に建康と改称)に居たが、愍帝が殺された事を聞くと、帝位に就いて晋を再興した。これは東晋と呼ばれ、前趙に滅ぼされた王朝は西晋と呼ばれる。

318年に劉聡は死去し、後継を巡って争いが起きる。これは最終的に族子(同族内の子供の世代にあたる者の事)の劉曜によって収められ、劉曜は即位して国号を趙(石氏が建国した後趙と区別するため、前趙と史称される)と改める。しかし、東方の攻略に出されていた石勒は襄国(現在の河北省?台市)に拠って自立し、翌年には大単于・趙王を名乗った。石勒はこの時鮮卑の拓跋部・段部と結んで王浚や劉?を討伐して河北・河南を領有し、山東の曹嶷(そうぎょく)も滅ぼし洛陽を境にして前趙とにらみ合う形になった。その後10年程睨み合いが続くが、劉曜は次第に酒色に耽るようになって堕落した。

328年に劉曜は後趙に占領されていた洛陽を奪還するべく自ら出兵するが、石勒の従甥の石虎の軍に大敗して劉曜は捕らえられて殺された。残った太子の劉煕も翌年に石虎により敗北して殺され、これにより前趙は滅亡し、後趙が華北をほぼ統一した。石勒は翌年の330年に天王を名乗り、更に皇帝に即位した。石勒は333年に死去し、息子の石弘が即位するが、石虎が廃位・殺害して自ら即位した。

石虎は?に遷都し、 鮮卑段部を滅ぼして後趙の最盛期を作った。しかし一方で残虐な振る舞いが非常に多く、溺愛していた息子の石韜が太子石宣によって殺されると石宣を含めた一族を多数殺害した。また、宮殿の造営や漢人からの物資、女性の徴発などを繰り返し、死後の冉閔の反動政治の原因を作っている。

石虎が349年に死去すると息子の石世が即位したが、間もなく彼の兄弟達による後継者争いが起きた。この時に漢人で石虎の養孫となっていた石閔は後趙の皇族らを殺して自ら即位し、国号を魏と定めた。その際に、元の名である冉閔に戻している。彼が建てた国は後に建国された北魏などと区別するために冉魏と史称されるが、短命に終わったため、五胡十六国の中には入っていない。後趙の残党はその後しばらく抵抗したが、351年に完全に滅亡した。

冉閔は特に石氏政権が連年漢人に対して苛政、圧政を強いた事への報復的世論を背景に統治下の漢人国民に対し、異民族への復讐と殺害を呼びかけた。結果、官・民・軍を問わず、国内の漢人の大半が決起して羯族を初めとした非漢人を大量に虐殺し、残った異民族は故郷への脱出を図った。当時の史書によると無事に帰れた者は十に二、三と言われるほどであったという。しかし、漢人としての正統であるはずの東晋に対しても敵対したので一部の漢人からも背かれた。

その頃、遼東では既に337年に鮮卑慕容部が慕容?の元で前燕を立てており、冉魏の混乱を見た前燕は中原へと進出してきた。前燕軍は冉魏軍に連勝し、352年に冉閔を捕らえて殺害、冉魏を滅ぼして龍城から?に遷都、前燕の君主慕容儁は皇帝に即位して中原に勢力を拡大した。

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 ⇒ 世界史年表

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