Subject   : ベスビオ火山爆発

カテゴリー  : 歴史  


 ベスビオ火山爆発
 ヴェスヴィオ火山は,山麓の広大な平地から火山特有のゆるやかな裾を引いて立ち上がり,山頂に近くなるにつれてかなりの急斜面を見せる円錐形の火山である.一目してわかるように,山頂は2つの峰からなる.南西側の高いほうの峰が歴史上幾多の噴火を繰り返した火口をもつ峰(ヴェスヴィオ山,1277m)であり,北東側の低い峰(ソンマSomma山,1132m)は,ヴェスヴィオ山を円弧状にとりまく古い火山体の一部である.このような形態や活発な爆発的噴火の歴史は,日本の浅間火山をほうふつとさせる.現在はソンマ山よりヴェスヴィオ山の方が標高が高いが,17世紀なかばにはソンマ山の方が高かったことが当時の絵画からわかる.豊富な絵画を時代順に並べることにより,17世紀末からの何度かの噴火によってヴェスヴィオ山が成長し,18世紀なかばに至ってほぼ現在の形となったことがわかっている.

ローマ帝国の2つの町ポンペイPompeiとヘルクラネウムHerculaneumを埋没させた紀元79年噴火の著名さのせいだろう.  初代皇帝オクタヴィアヌスの即位によって紀元前27年に成立したローマ帝国は,その絶頂期への道を歩み続けた.しかし,その道は決して平穏無事なものではなかった.第4代皇帝クラウディウスが54年に没した後,その後を継いだのは暴君として後世に名高いネロであった.ネロの傍若無人さに合わせるかのように,不吉な事件がローマ帝国のあちこちで起きるようになった.
 ネロがみずからの母を謀殺した2年後の61年にはブリタニア(現在のイギリス)で原住民の反ローマ蜂起が起き,ロンディニウムの町(現在のロンドン)が略奪を受けた.64年には帝都ローマが大火に襲われた.ネロは大火の罪をキリスト教徒にかぶせ,組織的な迫害を始めた.ネロの師であったストア派の哲学者セネカは,火山の下にマグマだまりがあること,噴火の原因がマグマ中のガスであることを見抜いていたが,65年にネロによって自殺を余儀なくされた.その後,68年に起きた反乱を機にネロはついに自殺に追い込まれることになったが,ネロの死後も凶事はやまず,政変と短命政権が続いた.そして79年を迎えた.

 ポンペイ・ヘルクラネウムとその一帯は,肥沃な土壌と豊かな作物,火山麓独特の風光明媚さ,温暖な気候などがあいまって,ローマ帝国当時から一級の保養地・避寒地であった.ポンペイはヴェスヴィオ山の南東麓(火口から9km)のナポリ湾に面する町で当時の推定人口は2万人,ヘルクラネウムは西麓(火口から6.5km)にあってやはりナポリ湾に面し,人口は5000人であった.発掘された街並みや,建物の壁に描かれた壁画などから,噴火前の住民の平和な暮らしぶりがしのばれる.ポンペイの町から発見された壁画のひとつには,緑におおわれたヴェスヴィオ山を背景に酒神バッカスの姿が描かれており,当時の山麓が今と同じくぶどうの名産地であったこともわかる.


 ⇒ 世界史年表

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