Subject   : スパルタクスの乱

カテゴリー  : 歴史  


 スパルタクスの乱(BC73〜71)
 BC3世紀後半にイタリア半島を統一したローマは、その後もシチリア、サルディニア、ガリア南部、イスパニア、北アフリカ、ギリシア、マケドニア、小アジアなどを次々に征服し、地中海世界における覇権を確立しようとしていた。しかし、こうした被征服地域の原住民族の抵抗は根強く、ローマ軍は各地で度重なる大敗北とその報復のための残虐行為という悪循環を繰り返す。BC91年に勃発した同盟都市戦争によってローマ軍が弱体化すると、BC88年、それに乗じてギリシャと小アジアでミトリダテス戦争が開始され、BC80年には更にイベリアでもセルトリウス戦争が勃発する。

 これらの戦争でローマ軍の捕虜となった者たちは奴隷として連れて来られ、大規模な農園や鉱山などの過酷な労働に酷使された。中でも剣闘士奴隷は、観衆の見世物として闘技場で死ぬまで互いに殺し合わなければならないという残酷な境遇に置かれていた。大規模農園の多いシチリアでは、BC135年とBC104年に第一次奴隷戦争と第二次奴隷戦争が勃発するが、いずれも強大なローマの軍事力によって鎮圧されてしまった。

 そうした情勢の中、BC73年春にトラキア人のスパルタクス(?〜BC71)を指導者とする74人の剣闘士奴隷が、南イタリアのカプアにある剣闘士奴隷養成所から脱走した。輸送中の剣闘士用武器を奪ったスパルタクスたちは、ウェスウィウス山を拠点に付近の農園に対する略奪を繰り返し、逃亡奴隷などを吸収しながら次第に勢力を増大させていく。

 これに対してローマは、法務官クラウディウス・グラベル率いる急造部隊3000を差し向けた。ローマ軍はウェスウィウス山の前面に布陣して一本しかない糧道を断つ作戦をとったが、ひそかに山の裏面にある崖を梯子を伝って降りたスパルタクス軍に、背後から奇襲されて大敗を喫する。事態が深刻であることを悟ったローマ元老院は、奴隷軍の鎮圧に法務官のプブリウス・ウァリニウス率いる2個軍団約1万2000を投入した。しかし、またしてもローマ軍は、敵を包囲しようと二手に分かれたところをスパルタクスによって各個撃破され、2個軍団がほぼ壊滅するという惨敗を喫してしまう。

 ローマ軍が2度にわたって敗北したとの情報が南イタリア全域に広まると、農場や牧場から多くの奴隷が逃亡して蜂起軍に加わった。9月、カンパニア地方を発った奴隷軍はルカニア地方を通って南下し、占領したトウリイで冬営をはることにした。奴隷軍は総勢7万にも達していたが、スパルタクスはイタリア半島に孤立した状態でいつまでも戦い続けるのは困難であることを認識していた。BC72年春、奴隷軍はアルプスを越えて各自が故郷へと帰還することを目標に北上を開始するが、副将クリコス率いる3万の奴隷がこの方針を不服としてスパルタクスのもとから離脱した。

 一方、断固として年内の奴隷蜂起鎮圧を決意したローマは、2人の執政官ゲッリウス・プブリコナとコリネリウス・レントゥルスの投入を決定し、さらにアルプス前面のガリア・キスアピナにカッシウス・ロンギヌス率いる部隊を配して万全の態勢を固める。各々2個軍団1万2000を率いた2人の執政官は、コリネリウスがスパルタクス軍にあたり、ゲッリウスがクリコス軍にあたる事にした。ゲッリウスの部隊は、3月にクリコス率いる奴隷軍をガルガヌス山に追いつめて撃滅し、北上を続けるスパルタクス本隊の追撃にかかった。

 対するスパルタクスは2人の執政官に挟撃されることを避けるため、まず後方から迫るゲッリウスの部隊を撃破し、返す刀で前方のレントゥルスの部隊に戦いを挑む。ピケヌム地方でおこなわれた戦闘は、重装歩兵の横隊によって敵を包囲しようとするローマ軍に対し、スパルタクスは騎兵隊による中央突破と軽装歩兵の後方攪乱によって圧勝した。アペニン山脈に沿って北上を続けるスパルタクスは、ムティナでカッシウス指揮下のローマ軍も撃破し、ついにアルプスの目前へと迫った。しかし季節はすでに秋に差し掛かろうとしており、多くの非戦闘員を含め12万にまで膨れ上がっていた奴隷軍はアルプス越えを断念し、越冬地を求めて再び南下を開始した。コリネリウスとゲッリウスはローマ軍をピケヌム地方に再結集させて奴隷軍の南下を阻止しようとしたが、結果はまたしても奴隷軍の大勝に終わる。

 奴隷軍の南下とローマ軍大敗の報が伝わると、ローマ市民はローマがスパルタクスの襲撃を受ける事を恐れて大恐慌となった。元老院は度重なる敗北を喫した執政官2人をローマに召還し、代わって富豪のマルクス・リキニウス・クラッスス(BC114頃〜53)に8個軍団5万という大軍を与えて鎮圧にあたらせることにする。また、この頃にはローマを取り巻く情勢も好転しており、セルトリウス戦争のためにイベリアに派遣されていたグネウス・ポンペイウス・ストラボン(BC106〜48)と、ミトリダテス戦争のためにオリエントに派遣されていたルキウス・リキニウス・ルクルス(BC117頃〜56)というローマの誇る名将2人を呼び戻すことも決定された。

 一方、BC72年末に厳しい冬季行軍に耐えながらブルッティウム半島南端のレギウムに到着したスパルタクスは、キリキアの海賊と交渉して対岸のシチリア島へ渡航しようと試みた。ところが既にローマが裏から手を回していたため海賊は現れず、その間に背後のクラッススが築いた54キロにも及ぶ塁壁線によって、ブルッティウム半島に閉じ込められてしまう。BC71年の2月末か3月の初めの雪の降る夜、奴隷軍はローマ軍の隙を衝いて塁壁線を突破することに成功するが、カマラトゥルム山の戦いでガリア、ゲルマン人部隊1万2300が戦死するという大敗を喫してしまった。

 イベリアから帰還したポンペイウスが北から迫っていたため、スパルタクスは港湾都市ブルンディシウムを目指して海路イタリアを脱出しようとしたが、ここにも既にルクルス指揮下のローマ軍が上陸を果たしていた。追いつめられたスパルタクスと9万の奴隷は、シラルス河畔でクラッスス軍に最後の決戦を挑んだ。敵からの慈悲を期待できない奴隷軍は、壮絶な戦闘の末に6万人の戦死者を出して壊滅した。スパルタクスはローマ軍の小隊長2人を倒した後に戦死したといわれているが、その屍体は斬りきざまれたために発見することができなかった。捕虜となった6000人はアッピア街道沿いに見せしめとして十字架にかけられ、戦場を離脱した奴隷たちによって続けられたゲリラ戦も、BC70年にはポンペイウスによって完全に鎮圧された。


 ⇒ 世界史年表

[メニューへ戻る]  [HOMEへ戻る]  [前のページに戻る]